アフリカ ギニア ボッソウ村での「緑の回廊プロジェクト」滞在記 渡航編(2) コナクリ滞在 カルチャーギャップに戸惑う

2005年12月13日(火)コナクリ滞在中

今日は、様々な事務手続きのためにコナクリ滞在です。
朝は早くから目が覚めてしまって、大変です。
5時くらいでしょうか、目覚めるのは・・・
未だ、時差ぼけが若干あります。
さすがの、ギニアでも5時となるとまだ暗いですね。
部屋からは、ギニア湾の?海が見えます。
朝日があがるところも見えるので、東向きの部屋なのかな?
(今、方位磁石で確認したら、東向きでした)
って、ことはギニア湾?
ギニア湾って、南だったような・・・
でも、微地形っていろいろあるからね~

コナクリの「ホテルロシェ」自室から見えた朝焼け

その朝日は日本で見るものと違うような気がするので、
外に出て写真を撮ろうとも思ったのですが、
さすがに、このギニアはコナクリで朝から一人で出歩く気にはなれません。
もちろん、言葉が不自由なこともありますが、
ここはまるでカオスです。
昨晩は、遅くにホテルに着いたので、
周辺の様子は垣間見る程度でしか分かりませんでしたが、
それでも十分に、治安は良くないことは分かります。

交通状態は、まさにカオス。
これは昨晩の日記にも書いたかな?

そんなところに、朝から一人で出て行って、
しかも写真を撮りに行って無事に帰ってこられるかどうかはかなり不安。
したがって、思い出は思い出として、
心に風景を刻みつけて、写真は諦めました。

社会主義の時代の名残か、
町中の写真をむやみに撮ると、怒られることもあるらしい・・・
町中には、ふとしたところに警官や、軍服を着た人たちがいるのです。

朝食はホテルの1Fにある食堂で食べます。
朝食はどうするのか聞いていなかったので、
おそるおそる1Fにおりてきたのですが、
先にKUPRIの人が食べていたので、
個人的に好きなように食べるのね、
と判断し適当に席について待っていると、
ウエイターがやってきて席の横に立ってオーダーを待っている。
何があるのか、わからないので、
何があるか片言のフランス語で尋ねてみるとメニューは2通りのみ。
オムレツかフルーツサラダ。
とりあえずフルーツサラダ(サラダドゥフリュイ)と
カフェオレ(キャフェオレ)を頼みました。
出てきたフルーツサラダは、
サラダと言うよりは小さく切ったフルーツの盛り合わせのようなもの。
ちょっと物足りない感じです。
パンとカフェオレでお腹を満たして、デザート代わりにサラダを食べました。

朝食をホテルでとった後、
迎えに着てくれたランドクルーザーに乗ってお出かけです。
ギニアのDirection Nationale de la Recherche Scientifique et Technologique
(科学技術研究省って感じでしょうか)へお出かけです。
来年は京都大学霊長類研究所がボッソウで研究を始めて30年になるそうで、
コナクリで11月末に国際シンポジウムを開くらしく、
その打合せを行うとのことで、牛田先生に金魚の糞状態でついていきました。

もちろん、フランス語での打合せ。
ほとんど、内容が分からない私・・・
しかし、どうも話がうまくかみ合っていないような感じが十分に伝わってきます。
(話が伝わっていなかったのかなぁ・・・という印象と、
さらに何やら若干トラブルの臭いを感じました)

どうやら、後で聞いたところによると、
「休憩時間になったら来客にお茶を出さなきゃいけないと思うが、
どうしたものか」とかなんだかんだと、
細かいことを気にしていろいろ言っていたそうです。
話をしている相手は、日本で言えば科学技術省の長官です。
その人が気にするような内容ではないし、
しかもまだ会場すら決まっていないような状態で
持ち出すような話の内容でもありません。
しかし、これは日本の尺度でのものの考え方になっている
と言われても仕方ないかも知れません。
ギニアにはギニアの、アフリカにはアフリカのものの考え方や尺度があるのです。

牛田先生も、それを忘れて思わず一生懸命になってしまった、と・・・
「私は、日本○○団の代表として申し上げます。云々・・・」
と話すべきだったのだと・・・

ものすごく体面を大事にして、
しかも細かいことに気を配って満足するのが民族性らしいです。
どうやら、物事をうまく線でつなげて考えることや、
線で管理することが苦手なようです。
別に、差別をしようとしているわけではありません。
方向音痴だけれど
その場の詳細のお店だとか看板はよく覚えている人って
いますよね。
逆に方向感覚は優れているけれど、
どこにどんな店があったとか
そんなことは覚えていない人もいますよね。
そんな感じです。

フランスの植民地、イギリスの植民地にかかわらず、
アフリカでは線でものを管理するのは苦手なようだと牛田先生。
確かに、フランスが植民地時代に引いた鉄道は、
今は全く機能していません。道路走っていると、
「お、線路があるぞ・・・電車は?」
と思って、線路を目で追いかけると線路の上に家が建っています。
まったく、線路を無視して生活しているのです。
線路上にバナナが植わっている場所もあったくらいです。

有線の電話は全く機能していないといって良いらしいです。
しかし、そこら中で携帯電話を使用している人はいます。

点ではきちんと管理できるが、線になると突然管理できなくなる、
そんな民族性があるようです。

さて、話はかなり長くなって、あちこちに飛んでいるようですが・・・
(ほんと、ひどい文章です)

そのようにして、我々にとってはほとんど無意味に
午前中のお話しは終了したようです。
その後は、ヘキサチューブを1200本、
コナクリからボッソウへと運送してもらうというAgentとの打合せです。
場所を移動し、
土レンガ(水で練った土をレンガ状に成形して天日干ししたもの。
ちなみにレンガは焼成しています)を積み上げてつくった建物に入る。
中は窓が小さいのか、暑いからあえて太陽光が入らないようにしているのか
わからないけれど、薄暗い。
どこだかわからないけれど、
おそらくここはチューブを運ぶことになっているAgentのオフィスのようです。
本来は、この辺りの話はわたしがすべきなのでしょうが、
ギニアの人々の気性が分からない上、
フランス語なので何ともしがたいところです。
したがって、申し訳なかったのですが
牛田先生に頑張って頂く他なかったのです。
日本にいるときに、牛田先生が聞いたところによると、
コナクリからボッソウへの陸送費は1800USドル。
しかし、どうやら長らくギニアで研究生活を送ってこられた
女性の方の話によると、
何が何でも1800USドルは高すぎるらしいです。
実質500USドル程度だろうと・・・
「え、その金額差は何?」
って思うでしょう?私も思いました。
しかし、これがギニアなのだそうです。
この話に関わったそれぞれの人たちが少しずつ
小遣いをとって、それが積もり積もってそんな値段になるのだそうです。
何だかんだと理由をつけては値段を下げようとはしません。
半分、脅しだな・・・っていうような場面もあったそうな・・・
(フランス語なので、残念ながら解りかねます・・・)

しかもです、用意されていた車を見てびっくり。
「え?これに載せるの?っていうか載るのか~?」
っていう車です。しかし、運べるというのだから運べるのでしょうね・・・

どう頑張っても載らないと思った1200セットのヘキサチューブ
しかし載るもんですね~~
右牛田先生と車

で、とりあえず、
通関手続きの代行手数用や何やで930USドルを
とりあえず支払って、港まで現物を見に行きました。
ありました、ありました。
まるでセメント工場のような通関倉庫に、
セメントのほこりをかぶっておかれているヘキサチューブと支柱たちが・・・
しかし、盗難されることもなく、
無事にとりあえずコナクリにはあるのです。
この先どうなるかは、まだ解りませんがね・・・

そして、3時間もあれば出せると豪語していたAgent。しかし、別れ際に、
「明日には出せるから・・・」
だって。この国はいったいどうなってんだか・・・

こんなことを言うと、
また差別だ、といわれるかも知れないけど、
これまで植民地として搾取されてきた歴史的背景はわかる。
全く持って不幸な出来事だったし、
それに対して償いなどをする必要はある。
ハンディキャップももちろんある
(アフリカに関しては日本は侵略したことは全くないので
ヨーロッパが償うべきだろうと思しますけどね・・・)。
しかし、いつまでもそういうわけにはいかない、
とわたしは思う。
せめて、仕事として引き受けたからには責任を果たすべきだ。
3時間もあれば出せるというなら、3時間以内に出すべきだ。
別に、それ以上は求めない、今は・・・

その後、昼食をとりに、
日本大使館近くのベトナム料理のお店へ行き、
たらふく昼食を食べました。
ボッソウへ行ったら、こんなもの食べられないと牛田先生。
食べられるうちに食べておかなきゃ・・・
とすごい勢いで食べていた先生
(不毛な話で疲れていたのかも知れない・・・すいません)。
(実に先生は正しい発言をされていたと
後に実感することに・・・
後日ボッソウから帰ってきて同じ店に行ったけど
半ば感動ですよ。
アジア料理って最高です!って叫びたい気持ちになりましたもん・・・)

で、その後、日本大使館に挨拶に行って、
極々ふつうのお話しをして、
その後シンポジウムの会場候補であるホテルに
下見に行きたいと言ったら、
昨晩に迎えに来てくれていた人が、
「今日は早く帰りたいからダメだ・・・」
っていう(運転手は文句は言わない・・・)。
このわがままを言っている人は、
京都大学霊長類研究所が雇っている人?
まだ、夕方4時にもなっていない。
研究所の車を我がもののように扱い、わがまま言いたい放題。
でも、これがギニアなんだそうだ。
向こうの土地だし、完全に主導権を握られているから・・・
(実はこの人物、
IREBというギニアの国立のボッソウ環境研究所に所長さんだったのです。
この後ボッソウでは毎日それなりに顔を合わすことになり、
人柄を知るとそんなに悪い人ではないことが解ってきます。
しかし、それにしてもちょっとわがままっちゃ
わがままだったかも知れないなぁ・・・)

でも、これはすでに書いたように、仕事なんだから、
それなりに仕事はしなきゃ。
そんなことをやっているようでは、
いつまで経っても先進国との差は縮まらない。
むしろ、開く一方だろう・・・嘆かわしいことだ。

会場視察を諦めて、宿泊ホテルへの帰路の途中。
かなりの渋滞に巻き込まれて、車はのろのろ。
すると、多くの人々が我々の車に近寄ってきて、
手のひらを上に向けて手を差し出し何か言っている。
金をくれと言うことなんだろう・・・
たしかに、所得では間違いなく日本人の方が稼いでいるし、
生活環境もいい。
だから、金をもらえるかも知れないと近寄ってくるのだ・・・
(かつて、タイに旅行したときにもそのようなことはあったが、比ではない)
戦争には負けたものの、
植民地として搾取されることもなく、
素早く立ち直れたという幸運もあったのだと思います。
でも、我々の親やその他大勢の人々が、
やっぱり頑張って働いてきた結果、今の日本があるのだと思う。
それに比べて、ギニアでは長年にわたり、
植民地として搾取されてきた背景、
奴隷として実働年齢の人々が連れ出されたなど、
ホントに不幸で愚かな歴史的背景がある。
しかし、それだけではないと思う。
やっぱり、簡単に寄付したり、お金を落とすだけではダメなんだ、
と先進国が気づくべきだし、
お金だけ出すような援助はやめるべきだと思います。
そんな援助は、彼らの足を引っ張るだけで
何の役にも立たないのではないかと思ってしまいます。
彼らには、きちんと仕事をしてもらうべきだし、
仕事ができないのであればお金はもらえないのだと
知ってもらうべきではないでしょうか・・・)

カオスのような街、コナクリ。建築中の建物なのか、
取り壊し中の建物なのか解らないような建物もある。
それなりのビルのような建物もあり。
テントのような建物、バラックも乱立する街。

たしかに、心傷む風景であるが、複雑な思いをした今日一日であった・・・

夕食は例によってホテルのレストランで。
また、デザートの時にビールを頼んで、
やっぱりウエイターに不思議そうな顔をされました。
飲食くらい自由にさせてくれ・・・

追記
実に嘆かわしいと思ったけれど、
これがこの国の人々の気性なんだと気づくまで
やっぱり1ヶ月近くはかかったかも知れない。
実にこの国の人々は気長に物事を成し遂げようとするのは苦手だ。
ものをメンテナンスしながら大事に使うのも苦手。
物事を筋道立てて長期レンジで計画を立てるのも苦手。
これは、基本的に農耕民族ではなく、
狩猟民族や放牧民族だからなのか・・・
気性的に、同じ所にじっと我慢して生活して、
何某かを育てていくということが根本的に苦手なようなのです。
しかも、強制的に(言葉は悪いけど、奴隷のように)
仕事をさせないと、自分たちで計画的にコツコツと、
というのは根本的にないようなのです。
アフリカがそうなのか、ギニアがそうなのかは解らないけど、
いろいろ難しいようなのです・・・

アフリカ ギニア ボッソウ村での「緑の回廊プロジェクト」滞在記 渡航編(1) シャルル・ド・ゴール空港に到着

2005年12月11日

親に関西国際空港まで送ってもらって、両親、奥さんに見送られて日本を発ちました。

現地時間21:05(日本時間12月12日05:05)。
未だに実感がありませんが、すでにパリにいます。

エールフランスで、関西国際空港からシャルル・ド・ゴール空港に。長い長いフライトで非常に疲れました・・・
目の前にあるモニターで映画でもと思ったのですが、調子が悪く映ったり映らなかったりでうんざり。
牛田先生は隣に座った外国人の女性と話が盛り上がっているようですが、わたしの両隣は日本人。
どちらも無口でおとなしい感じ・・・
わたしも普段はおしゃべりな方かも知れないけれど、知らない人といくらでも話ができると言うほど気さくでもないし。
結局、ほとんど本を読んだりウトウトしたりでフランスはシャルルドゴールまで・・・
(本を読むにも、僕の席の照明がつかなかったので、隣の人が照明を消すと何もできないという不便な状態だった)。

シャルルドゴール空港に着くと、荷物を当然受け取るべく、ベルトコンベアーの前で待つことになったのですが、
ここの空港のベルトコンベアーってシステマチックではなく、構造的に欠陥があるとしか思えない代物。
ベルトの片側からしか荷物がとれないし(日本の空港などではベルトの両サイドから荷物がとれるようになっていますよね)、
待合いが狭く、非常に混雑したような印象です。
しかも、狭い上に手押しのキャリーが所狭しと置かれているので尚更狭い。
荷物もなかなか出てこないし、ほんとに先進国の空港なのかと一瞬疑いたくなるような状態でした・・・。

パリの気温は3℃。日本とさして気温は変わりません。
それにしてもシャルル・ド・ゴール空港って大きな空港なんですね。
ターミナル1~3まであって、ターミナル2はA~Fまである。ターミナル1はどうなっているのかは知りません。
わたしたちはターミナル2に到着。
通常なら、ターミナル2Fに到着するはずが、どうやら違う場所に着陸していたようで、
すこし先生も戸惑いがちのようですが、それでもパリで生活されていたこともある先生は勝手知ったる場所という感じでずんずん歩いていかれます。
わたしは「ひよこ」のようについて歩くだけ。
最近、こういう歩き方はしていなかっただけに知らない場所に来たんだなぁという感じは若干あります。

先生は、シャトルバスが来る場所がわかったようで外に出ていかれます。先生を見失わないようにわたしも空港の外に。
ホテルまではシャトルバスが運行されているので、空港出口でシャトルバスを待ちました。
20分くらい待った後、シャトルバスが来たので乗り込みました。
クラッチワークが荒い運転で、少し面食らいましたが運転は問題ないようです。
このシャトルバスは、空港内のあちこちの出口で待つ客をピックアップしていく。

昨年(2004年)6月に、空港の一部の屋根が崩落したと、牛田先生がおっしゃてました。
地震がないフランスでは、建築物の構造がいい加減らしい。
たしかに、空港でシャトルバスを待っていると、道路の継ぎ目を大型のバスが通り過ぎるたびに振動が伝わってきていました。
その、崩落箇所はといえば、未だに工事中(あるいは未だに放置)で、電気が消えています。
日本では考えられない、スローペース。
もう、崩落から1年半が経過しているのに・・・

ホテルにつくと、簡単な夕食をとりました。
もちろん、日本語が通じるのは、日本から来ている僕たち一行だけ・・・
そのくせ外国にいる気がしないのは何故か。
日本ではもうまもなく夜が明けようとしているはずなのに、これから寝る準備をしようという状態です。
にもかかわらず、海外にいる実感がない。
ただ、体が移動しただけで、心が追いつかないというところでしょうか。
牛田先生が、フランス語が堪能なので、不自由しないせいもあると思いますが、
如何せん飛行機を降りて、ホテルについて夕食を簡単に済ませただけだから仕方ないともいえるかも知れません。
また、いまだ、パリという先進国に身を置いているからかも知れません。

今回の旅(出張)は、ギニアはボッソウ村という先進国からはかけ離れた場所に行く
という気持ちが勝ちすぎていたからかも知れません。
ただ、パリはただの経由地に過ぎないから、こんなところで実感しても仕方ないともいえます。
悲しいかな、これから約1ヶ月、どのようになるかはいまだ想像できずにいます。
ともかく、無事にとりあえず、経由地であるパリに到着しました。
窮屈な、エコノミークラスの座席から解放された心地よさだけが際だつ、このひととき・・・
明日の夜には間違いなくギニアに足を踏み入れることになります。
ま、明日からです、本番は・・・

アフリカ ギニア ボッソウ村での「緑の回廊プロジェクト」滞在記 滞在編(2) ギニア・コナクリ空港に到着

2005年12月12日

現地時間、夕方の4時頃にパリを発って、夜9時頃にギニアはコナクリ空港に降り立ちました。

飛行機の中から早くもカルチャーショックでした。
アフリカの人ってホントにルールがあってないようなものなのかなぁ、と思うことが・・・
手荷物はたしか12kgまでと重量が決まっています。しかも、預ける荷物も確か20kgまで。
それを越えると超過料金があるはずなのです。にもかかわらず、
かなり大きな荷物を抱えて飛行機に乗ってくるんですよね
(追加料金を払っているのかも知れないけれど・・・)。

そして、エールフランスだからか、やっぱりモニターの調子が悪い席があるのです
(JALとか日本の飛行機ではそんなことはあんまり聞いたことがないもので・・・)。
その席に座った黒人の女性。モニターを力一杯なぐっていました。これには本当に驚きました。

コナクリ空港に着いてからもカルチャーショックの連続。
飛行機からタラップを下りて空港の滑走路に降りるのですが、まるでテレビで観る大統領や総理大臣と同じです。
入国手続は、それなりにあって、パスポートやビザなどを確認しているけれど、
その奥では荷物を確保しようとベルトの前で場所取りをしている人々が右往左往しているのが見えるような状態。
入国手続きをしている人は軍服を着ています。
独立してから間もなくは社会主義というか軍事主義というかそのような状態の国だったと記憶していますが、
その名残が残っているようなのです・・・

そして、何よりも暑い。
普通、空港って空調が効いていて、寒い国に来たのか暑い国に来たのか、
空港を出てみないと解らないような状態だと思うけど、前述のように飛行機を降りた瞬間外だから、暑い。
パリはしっかり冬だったから、当然、冬の服装をしているのです。だから、余計に暑い。
夏の格好をしていても暑いのに・・・しかも、狭いところに人が密集しているから尚更暑い。
そして、なぜか出国手続きもしていない出迎えの人たちがたくさん入国ゲートの外側(飛行機側)に来ています。
入国審査で待っている人以外のこういった出迎えの人もたくさんいるので余計に暑い。
日本やその他の先進国ではあり得ません。
空港は壁と屋根はありますが、空調などは全くありません。雨、風をしのげる程度のものです。
しかも、この空港暗いんです。
体育会系のクラブに属していた人はわかると思うのですが、体育館の照明をつけて間もなくは薄暗いですよね。
しばらく待っていると徐々に明るくなってくるようなあの感じ・・・その、明るくなる前のような状態なのです。

入国手続きをすませて、荷物を待ちます。
パリから来たばかりのわたしたちは冬服を着ているのでとにかく暑い。
荷物を運ぶベルトの周辺には人だかりができていて、とても近づけません。
搭乗客以外に、荷物をピックアップする仕事をしている人もいるからでしょう。
その大勢の人々の足下をネズミが走り抜けます。
日本ではまずお目にかかれないすごい状況の中、何とか荷物をピックアップした後、我々一行を出迎えてくれる人がいました。
ボッソウで研究をしている人たちのようです。
牛田先生とフランス語で何やら挨拶などしておられましたが
フランス語なのでいったいどんな会話をされていたのかまったくわからず、詳細はわかりません。

トヨタから寄贈されたというランドクルーザーに乗ってホテルへと向かう道は舗装されておらず、
所々に深いくぼみができていています。
そのたび車はスピードを落とし、そのくぼみを避けたり、ゆっくりと乗り越えていきます。
さらに夜も10時を過ぎようかというのに、あちらこちらに人がいます。
ひっきりなしに走る車の隙間をぬって道路を横断しようという人も大勢見かけました。
事故が起きないのが不思議なくらいの混雑ぶりです。
道路には街灯などはなく暗い。そんな中から人が出てくるのです。運転するには恐ろしすぎる交通事情といえます。
道ばたに見える家などは、日本では考えられないような家です。
なぜ、この人たちはこのような生活を強いられるのか、と考えると胸が痛む思いがしました。

しかし、人のことを心配していられるような状態でもありません。
心配していた通りフランス語が聞き取れないのです。
会話どころの話ではありません・・・多大なる不安を抱えながらのギニアでの生活のスタートになったような気がします・・・
しかし、何はともあれ無事にコナクリのホテルに到着してチェックインも無事終了。
ロビーは狭いけれど、思った以上にきれいでこぢんまりとしたホテルで一安心。

夜も遅いので夕食に出かけるのも危ないので、ホテルの1Fにあるレストランで食べることに。
かつてフランス領だったギニア共和国ではフランス料理であったりフランスの食習慣が普通に残っているようです。
ひとしきり食事が済むと、「デザートは?」と聞かれます。
霊長類研究所の女性陣はそれぞれデザートを頼んでいたけれど、もともと甘いものはあまり食べない私。
もうちょっと飲みたかったので「ビエール(ビールのこと)」というと、

「え?」

とウエイターは不思議そうな顔をするのです。
食後に改めてビールを飲む、という行為が理解できないようです。
それでも、「ビエール、シルブプレ」というとしぶしぶ了解したような感じでした。
牛田先生はリンゴか何かから作られたデザート酒を注文されてました。
さすがフランスで生活されていただけあって食後に飲むアルコールも知っておられるようです。
でも、やっぱり私はビールが一番、です。

さて、あとはゆっくり眠れるかどうかはわかりませんが、とりあえず眠ろう。

アフリカ ギニア ボッソウ村での「緑の回廊プロジェクト」滞在記 渡航編(1) シャルル・ド・ゴール空港に到着

2005年12月11日

親に関西国際空港まで送ってもらって、両親、奥さんに見送られて日本を発ちました。

現地時間21:05(日本時間12月12日05:05)。
未だに実感がありませんが、すでにパリにいます。

エールフランスで、関西国際空港からシャルル・ド・ゴール空港に。長い長いフライトで非常に疲れました・・・
目の前にあるモニターで映画でもと思ったのですが、調子が悪く映ったり映らなかったりでうんざり。
牛田先生は隣に座った外国人の女性と話が盛り上がっているようですが、わたしの両隣は日本人。
どちらも無口でおとなしい感じ・・・
わたしも普段はおしゃべりな方かも知れないけれど、知らない人といくらでも話ができると言うほど気さくでもないし。
結局、ほとんど本を読んだりウトウトしたりでフランスはシャルルドゴールまで・・・
(本を読むにも、僕の席の照明がつかなかったので、隣の人が照明を消すと何もできないという不便な状態だった)。

シャルルドゴール空港に着くと、荷物を当然受け取るべく、ベルトコンベアーの前で待つことになったのですが、
ここの空港のベルトコンベアーってシステマチックではなく、構造的に欠陥があるとしか思えない代物。
ベルトの片側からしか荷物がとれないし(日本の空港などではベルトの両サイドから荷物がとれるようになっていますよね)、
待合いが狭く、非常に混雑したような印象です。
しかも、狭い上に手押しのキャリーが所狭しと置かれているので尚更狭い。
荷物もなかなか出てこないし、ほんとに先進国の空港なのかと一瞬疑いたくなるような状態でした・・・。

パリの気温は3℃。日本とさして気温は変わりません。
それにしてもシャルル・ド・ゴール空港って大きな空港なんですね。
ターミナル1~3まであって、ターミナル2はA~Fまである。ターミナル1はどうなっているのかは知りません。
わたしたちはターミナル2に到着。
通常なら、ターミナル2Fに到着するはずが、どうやら違う場所に着陸していたようで、
すこし先生も戸惑いがちのようですが、それでもパリで生活されていたこともある先生は勝手知ったる場所という感じでずんずん歩いていかれます。
わたしは「ひよこ」のようについて歩くだけ。
最近、こういう歩き方はしていなかっただけに知らない場所に来たんだなぁという感じは若干あります。

先生は、シャトルバスが来る場所がわかったようで外に出ていかれます。先生を見失わないようにわたしも空港の外に。
ホテルまではシャトルバスが運行されているので、空港出口でシャトルバスを待ちました。
20分くらい待った後、シャトルバスが来たので乗り込みました。
クラッチワークが荒い運転で、少し面食らいましたが運転は問題ないようです。
このシャトルバスは、空港内のあちこちの出口で待つ客をピックアップしていく。

昨年(2004年)6月に、空港の一部の屋根が崩落したと、牛田先生がおっしゃてました。
地震がないフランスでは、建築物の構造がいい加減らしい。
たしかに、空港でシャトルバスを待っていると、道路の継ぎ目を大型のバスが通り過ぎるたびに振動が伝わってきていました。
その、崩落箇所はといえば、未だに工事中(あるいは未だに放置)で、電気が消えています。
日本では考えられない、スローペース。
もう、崩落から1年半が経過しているのに・・・

ホテルにつくと、簡単な夕食をとりました。
もちろん、日本語が通じるのは、日本から来ている僕たち一行だけ・・・
そのくせ外国にいる気がしないのは何故か。
日本ではもうまもなく夜が明けようとしているはずなのに、これから寝る準備をしようという状態です。
にもかかわらず、海外にいる実感がない。
ただ、体が移動しただけで、心が追いつかないというところでしょうか。
牛田先生が、フランス語が堪能なので、不自由しないせいもあると思いますが、
如何せん飛行機を降りて、ホテルについて夕食を簡単に済ませただけだから仕方ないともいえるかも知れません。
また、いまだ、パリという先進国に身を置いているからかも知れません。

今回の旅(出張)は、ギニアはボッソウ村という先進国からはかけ離れた場所に行く
という気持ちが勝ちすぎていたからかも知れません。
ただ、パリはただの経由地に過ぎないから、こんなところで実感しても仕方ないともいえます。
悲しいかな、これから約1ヶ月、どのようになるかはいまだ想像できずにいます。
ともかく、無事にとりあえず、経由地であるパリに到着しました。
窮屈な、エコノミークラスの座席から解放された心地よさだけが際だつ、このひととき・・・
明日の夜には間違いなくギニアに足を踏み入れることになります。
ま、明日からです、本番は・・・

アフリカ ギニア ボッソウ村での「緑の回廊プロジェクト」滞在記 準備編(最終) マラリア予防薬を求めて右往左往する

2005年11月21日

ギニア共和国に限らず、熱帯の地域ではマラリアが流行しているので、薬を飲んでマラリア予防することになります。
長期滞在される方の中には飲まれない方もおられるそうですが。
その薬は、マラリアの予防と治療に使用されるとのこと。
日本で認可されているのはまだ「メファキン」という薬一種類だけ。
そんじょそこらの病院に飛び込んで、「メファキン下さい」っていっても出てくるものではないそうです。
しかも、この薬は渡航する一週間前から服用する必要があるので、そろそろ準備しなければ間に合いません。
そこで、大阪検疫所からもらった医療機関のリストに載っている病院に電話しました。

「あの~、そちらで抗マラリア薬を処方して頂けると聞いたんですけども」
「あ、以前知人に処方したのがインターネットに出ちゃったんですよね。今はやってません。ガチャッ」

さすがに、大阪検疫所でもらったリストだったのであっさり「はい、処方できますよ」
って言ってくれると思ったのに残念。仕方ありません、気を取り直して、大きい病院に電話。

私立の総合病院(T原総合病院)

「あの、ちょっと伺いたいことがあるんですけど・・・仕事でアフリカに行くことになりまして、
マラリアの予防が必要なんですけども、そちらでメファキンを処方して頂けるのでしょうか」
「少々お待ち下さい・・・」(・・・長い間合い)
「あ、先生に確認しないと何とも申し上げられないので折り返し電話いたします」
しばらくして、「もしもしT原総合病院です」「あ、わざわざすいません・・・」
「申し訳ありませんが、こちらでは処方できないとのことなので、保健所の方に問い合わせて頂けませんか?」
「分かりました、お手数かけました。ガチャ」

保健所

「あ、あの伺いたいことがあるんですけども」「はい、何でしょう」
「あのですね、仕事でアフリカに行くことになりまして、マラリアの予防を・・・」「予防接種ですか?」
「あ、いや。服用の薬で予防すると聞いたのですが・・・」「ちょっと待って下さいね」(・・・また長い間合い)
「こちらでは予防の薬の処方とかはやってないんですけども。病院の方に問い合わせてみられては?」
「あ、いやいや。さっき病院に聞いたら保健所の方に聞いてくれと・・・」
「あぁ・・・そうですか・・・じゃぁ、検疫所の方に・・・」
「検疫所からは、病院で処方してくれると伺ったんですが」
「そうですか、じゃぁ、こちらの方で処方してくれるような医療機関を調べてご連絡しましょうか?あまり、期待はできないですけど・・・」
「では結構です。ありがとうございました。失礼します。ガチャ」

たらい回しです。
困ったことになりつつあるように感じます。
仕方ない、と再び気を取り直して、ここは大学病院、と比較的近くの大学病院に電話する。

N県立医科大学付属病院

「こちらでは、予防では処方できませんので。病気になってから来て下さい」
「そうですか・・・失礼しました。ガチャ」

K大学付属病院

「こちらでは、予防では処方できません。病気になって診察で必要となれば処方できますが」
「そうですか・・・失礼しました。ガチャ」

散々、あちこちに電話して回って、結局、検疫所からもらったリストにあった医療機関(大阪市立総合医療センター)で処方して頂けることが判明。
ここにたどり着くまでが長かった。
基本的に病院では予防のために薬が処方されないのだということがよくわかりました。
でも、処方してくれるところが見つかって一安心です。

2005年11月22日

ようやくマラリア予防薬である「メファキン」を大阪市立総合医療センターにて処方して頂きました。
薬では副作用があるのは当然ですが、いろいろ副作用について書かれており、すこし心配。
でもマラリアに感染しては元も子もないので来週あたりから服用開始です。
いよいよギニア渡航も近い、という感じがしてきました。

2005年11月30日、この日、ギニア渡航費用を旅行会社に振り込みました。
いよいよ、もう逃げられない、というところでしょうか。

2005年12月6日

いよいよギニアへの渡航用のビザを取得いたしました。
パスポートを旅行代理店に送り、代理でギニア大使館にてビザを発行してもらってパスポートに貼り付けて押印。
なかなかパスポートが返ってこないので心配していました。
週末には出国というのに、本当に間に合うのだろうか、とドキドキしてましたが、なんとか無事にビザを取得。
日本のパスポートを持っていればビザ申請なしに入国できる国が多くなっている今、ギニア共和国は未だにビザが必要です。
わたしは、これが初めてのビザの取得となりました。
ビザと伴にボーディングパスも送られてきました。
これがないと、帰ってこれないので、これだけはなくさないように気をつけなければ・・・
寅さんのように腹巻きでもして、常に持ち歩くくらいの気持ちがあっていいかもしれませんね。
いよいよ、今週末から旅立ちです。準備期間が長くて、「いよいよ」が何度もありましたが、本当にいよいよです。